大善をなすために何を軸にするか

大善をなすために何を軸にするか

積善をしようするとき、それが大きな角度での善なのか、それとも一見、善に見えても、結果的には善ではないのか。それを見極めることが肝要です。

積善の実践において善悪をこえて大善をなすには

「天地に仁なし。万物をもって芻狗(すうく)と為す。」という言葉は「老子」を出典としています。「老子」の原文は、「天地は仁ならず、万物を以もって芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓を以もって芻狗と為す。」この意味は、「天地自然は気ままに命を産むが、用が済めばすべての生物を平等に殺す。聖人もまた、人を平等に愛するが、去っていく者には心を置かない。」というものです。

 

老子が説いた真意とは?

原文にある芻狗(すうく)というのは、祭祀に使用する、ワラで作った犬で、燃やして天への捧げものとしていました。この一文は、どのようなことを教えているかというと、政治家でも、国民の半分の意見を聞こうと思うと、残り半分の意見を無視することになります。原発を再開する場合などを考えたらわかります。再開するほうが日本経済が活性化し、実質賃金があがり、暮らしも社会も加速度的によくなるのはわかりきっていますが、それは、放射線について無知ゆえの恐怖感を持っている人々や、イデオロギーに凝り固まった脱原発主義者の恨みを買うでしょう。消費税を廃止し、社会保険料を廃止し、ガソリン税を廃止するように政治家が決断したら、その効果で日本国民は貧困から救われ、結婚できる若者が増えて少子化も解消されますが、このような英断をつらぬくためには、財政健全化すべきだと妄信している貨幣観が間違っている人々の恨みを買うことになるでしょう。そうした恨みを受ける覚悟で、より大きな角度から積善をして、より多数の人々の幸せを実現するのが、為政者としての責務なのです。

 

大きな善徳を積む時にはリスクがある

小さな善徳は、無難に積めます。しかし、大きな善徳を積む場合、同時に、劫を積んでしまうことはしばしばあるのです。歴史ドラマでも、しばしば出てきますが、天下を平定して平和な世の中にしようとすれば、どうしても戦争をして敵勢力を破壊せねばなりません。つまり、それは殺人の罪を犯すことになるのです。それはまるで、「仁なし」の行為と映ることでしょう。これが「天地に仁なし。聖人に仁なし」の真意です。つまり、あまりにも大きな尺度で仁を行うので、目先しか見えない人には、無慈悲に見える場合もあるということです。積善ではなく、積不善となる部分が生じたら、その部分は、因果応報の作用を受けるので、苦難となって返ってくることになります。そのことを覚悟のうえで、より大きな善をなすことができるのが、本当に勇気がある、成熟した魂であるといえるのです。進化した魂であればあるほど、他者からどう思われるかを気にせず、より高い観点から、人生を見つめることができるのです。

 

悪人呼ばわりされる覚悟はあるか?

世の中において、あるいは人に対してでも、より大きな尺度で仁つまり愛と真心を実践する場合、一見すると、無慈悲に映ることはありうるということです。逆恨みされたり、誹謗中傷されたり、一生呪い続けられるということもあるかもしれません。そういうリスクを犯してでも、より大きな善のため、より大きな道のために、動かなければならないこともあるということです。そんな場合、もしマイナスのカルマができたとしても、それをあがなっていく覚悟を持てばよいのです。どんな苦難も、勇気を持って乗り越える覚悟を持って、甘んじて受けるということです。こうした考え方は、スピリチュアルにかぶれた人や、宗教狂いの人には、なかなか理解できないかもしれません。ですが、転生回数が多い、進化した魂となると、こうした大きな尺度で、世の中のために積善となる行いを実行していくものなのです。

 

甘んじて悪人にもなれるのが真の善人

誰かに対して、あるいは社会に対して大きな善の尺度から行動することが、誰かを人を苦しめることになる場合でも、同じです。もちろん、どんな場合でも、愛と真心で締めくくり、言葉をつくして、相互理解と対話による融和を目指すように、問題を解決することが大切です。しかし、やむを得ず積不善が生じた場合でも、それ以上に積善を重ね、善徳を積むことで、プラス点数が圧倒的に多くなれば人生は大成功といえるのです。「天地に仁なし」という老子の教えの真意が理解できると、真心をこめて善をなすことを恐れなくなります。今の世の中でいえば、移民問題がそうです。移民をかわいそうだと言って、どんどん受け入れようとする人は思いやりの心でやっているかもしれません。しかし、その善意で大量の移民を受け入れた欧米では、増えすぎた移民による暴動や犯罪が多発し、女性や子供が犯罪の被害者となり、社会全体が混乱し、治安が悪化して、まるで内戦のような状態になっています。キリスト教の社会にイスラム教徒の労働者を受け入れれば、宗教の摩擦が生じるのはわかりきったことでした。このように小さな善意で行ったことが、大きな視点でみれば、自国の国民を苦しめて、大混乱をもたらしているのです。日本も、これ以上移民労働者を入れ続ければ、欧米と同じような問題が起きてきます。すでに埼玉県ではクルド人問題が起きて、日本人がひどい目に合っているのです。政治家は、断固として移民政策をストップしなければなりません。悪人呼ばわりされても、それは断固としてやらねばならないのです。

 

小善と独善に注意し常に自己を顧みる

人間は常に大善をなせるわけではなく、小善であったり、時に独善であったり、不完全な形でしか、善事をなせない場合も多いです。最善を尽くしても、逆恨みされることもあります。自分の至らなさゆえに過ちを犯すこともあります。その結果として、人が去って行くようなことがあったとしても、天地神明に恥ずるところがないのなら、去って行く人に心を置かないことです。集まっては離れ、離れてはまた集まるのが人の世の姿でもあります。他者への承認欲求を捨てて、他者を軸にして思考することをやめて、自分軸あるいはそれ以上に天地神明を軸にした生き方に自分をもっていかないと、本当の大きな積善はできないのです。

久保征章の著書