愛と感謝の祈りが神様を動かす

愛と感謝の祈りが神様を動かす

愛の念を出すことで神仏が感応されます。
愛のない祈りに神仏の反応はありません。

愛と感謝の祈りが神様を動かす

催眠

愛のない祈りに神仏の反応はありません。そのためには、愛というものが何か、まず、理解することが重要です。愛の念とは、「幸せになりますように」という「思い」なのです。イメージとしては、「〇〇さんが喜んでニコココしているイメージ」です。ですから、愛情つまり愛の念を出している場合は、この言葉とイメージがあるということです。これがあれば、愛の念なのです。このほかには、危険から守ろうとする愛の念もあります。例えば、ライオンのメスが、自分の赤ちゃんをハイエナから守ろうとして、牙をむき、爪を立て、ハイエナを蹴散らす時、これは、愛する者を守ろうとする愛念で戦っているのです。このように愛というのは、慈しみと悲しみです。それゆえに慈悲というのです。


ニコニコする相手を願うのは慈しみです。苦しむ相手を守ろうとするのは悲しみです。これが愛なのだということを理解して下さい。ところで、神道は「浄、明、正、直」を教えますが、神道の中に、慈悲とか愛念についてのわかりやすい教えが欠落しているために、神道だけ学ぶと、キリスト教的な隣人愛が不足しがちです。本当は神への誠をきわめれば、おのずから仁愛に至るのですが、中途半端に理解すると、愛に欠ける傾向が出ることもあります。聖書では愛のことを以下のように述べています。「コリントの信徒への手紙13章」で、


「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」


と、愛のない霊能力者や占い師や宗教家を批判しています。そのうえで、愛について以下のように定義しているのです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」このように愛について具体的に説いたうえで、以下のように結んでいます。
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
久保征章の著書