願望実現と前世の負債

願望実現と前世の負債

前世療法の真の有益性は本人の人生を立て直ししていく効果にあります。人生全般を良い方向に変えていける大きなきっかけとなるのです。願望をかなえたり、理想を実現したりすることが加速されます。

叶わない、叶わないと嘆く前に


想念、セルフイメージを入れ変える努力は理想実現の基本ですが、これに加えて以下の行動を行うと開運が加速します。一つは環境の変化を生み出すこと。悪い縁を切り、良い縁を新しく求めてつながっていく努力をします。住む場所を変えるのも一つですし、職場や友達を変えるのも一つです。新しいものをどんどんつかみにいくことで早く運が変わります。次は、善因善果、悪因悪果の法則にもとづき、善因をつくっていきます。「人を助ける」「人のために行動する」「人に親切にする」などの愛や慈悲にもとづく言葉と行動を積み重ねます。それが自分の幸福になって戻ってくるのです。戻ってくるまでにはタイムラグがありますので、過度の期待はせずに積み重ねていきましょう。逆の行為をしないように気をつけていきます。このように日々を生きていると、マイナス循環からプラス循環に、運命のサイクルが入れ替わります。普通は一定の時間がかかりますが、いっそう変化を早められる方法もあります。

カルマの負債を返すと開運していく

時間がかかるのは、過去に作り出したマイナスの自己規定がまだ作用しているのと、前世の借金がまだ残ってるからです。そこを有難く救済してくださるのが神仏のご加護です。それを受けるには、「生き方が神仏の御心に叶う」素晴らしいものになる必要があります。そうしていると、神仏の恩寵により、普通では考えられない速さで前世の借金は清算され、幸福サイクルに入ります。つまり何度も大変な試練や苦難が必ず来て、それでカルマが精算されるのです。そのとき神仏をうらまず、むしろ「これで精算された」と感謝して乗り越えることです。守られている人は、試練といっても必ず乗り越えられる形で来るし、ぎりぎりのところで守られるようになっているのです。試練もまた神仏の愛であり、魂が磨ける学びとして与えられるのです。ここを理解するのが本当の意味での『普遍的信仰心』です。日々善徳を積み、良き未来を創造するための努力をする、それだけで、「今」がだんだん楽しく、おもしろく、愛に満ちた環境になります。


因果応報を加速させ理想実現する

【質問】
「叩けよさらば開かれん」と、キリスト教でも教えています。それがひたすら祈る事、努力する事、望む事。それでも叶わぬのは祈りが足らぬから、努力が足りぬから、望み切れてないから、方向が違うから、あるいは、ただ試されているからなのでしょうか?

【回答】
それだけではありません。誰にでも、前世の負債というものがあります。そのマイナスのカルマがある程度、清算されないと、運勢は開きません。うまくいかない現状がある場合の多くは、まだ相当な前世の借金があるということです。前世で他人を傷つけ、苦しめたゆえに、そのあがないを今、受けているのかもしれません。この前世の借金は代わりに誰かが返済してくれることはありません。しかし、お金の世界での話で例えると、借金の返済にはいろいろな方法があります。二千万円の借金があったとして、身の自由を奪われて三年間、特殊な職業でただ同然で働かせられて返す場合もあるでしょう。また逆に普通の職種で働きながら二十年かけて、毎月、可能な範囲で返す場合もあるでしょう。過激で苦しい返済方法と、温和で実行のしやすい返済方法があるということです。神仏に愛される度合いが少ない人、つまり愚痴や不満や憎しみを捨てない人は、過激で苦しい返済になりがちです。しかし、生き方を改めて徳を積んで世のため人のために生きる人の場合は、神仏は返済方法を温和なものに変えてくださるのです。それは正しい生き方にめざめたからです。そもそも因果応報の法則は魂の進化のために存在しています。進化しようと前向きになると、恩赦がおこってくるのです。しかし絶対量はゼロになることはありません。大難が小難になるかもしれませんが、帳消しはありません。

自分のまいた種は自分で刈り取る、それが因果応報

あなたも今、あなた自身の借金を刈り取っているのです。そのとき、どうすれば、より返済しやすい方法で楽に返させてもらえるかです。もっとも重い負債のあがないは寿命にきます。早死にや事故死、変死は悪劫があるから起こります。その次に重い負債は健康を障害します。難病や奇病で苦しんでいる人、障害のある人です。金運や仕事運がなく貧乏で苦しむ場合や、対人関係、いじめなどはその次のレベルといえるでしょう。好きな職業につけない、自己実現できない苦しみもあるでしょう。徳を積んでいる人、前世の貯金がある人は、この逆に、健康で、お金にめぐまれ、良い親兄弟にめぐまれ、友達にめぐまれ、好きな仕事をして幸せに生きるのです。神仏に愛される人であればあるほど、苦しみの形が少しずつ変化し、より乗り越えやすいもの、その試練で魂が成長できるメリットもあるものに変わります。忘れてはならないことが、もうひとつあります。それは、あらたに善徳を積むという行動です。開運しないのは、徳分が足りないためでもありますから、これを日々の善行で積み上げていくことも大切です。そして、同じ苦しむなら、善徳を積む過程で苦労するほうがより有意義であるといえるのです。祈るという言葉の理解も重要です。神仏に祈るというのは、数時間単位で考えるものです。五分や十分で動くものではありません。モーゼは十戒を授かるのに40日間、シナイ山の山中で飲まず食わずで祈り続けました。イスラム教徒は日に五回、礼拝が義務づけられています。うまくいっていない人の最大の共通点は、祈りの時間が圧倒的に足りないということです。毎日数時間(一日の合計でという意味です)も祈っていません。せいぜい5分から15分です。祈りが足りないので、神仏に誠が通らず、お祈りの仕方が間違っているので、神が動かないのです。祈りの意味、意義がわかっていないということです。
久保征章の著書